あなたは心から主を愛せよ:マリアと神の完全な愛

Diliges dominum Ex toto corde tuo: Maria e o amor total a Deus

あなたは、心、魂、知性、能力のすべてを尽くして、あなたの神を愛しなさい。
マルコによる福音書 12:30

ある書士がイエスに「最も重要な戒めは何ですか」と尋ねたとき、イエスはそのシマ(出エジプト記 6:4-5)と、隣人への愛(レビ記 19:18)を組み合わせた回答を与え、さらにその二つの戒めを統合した新しい戒めを宣言し、「それらより優れた戒めはありません」と述べました。この神を愛せよという戒めは、人間全体を記述する四つの愛、心(kardia)、魂(psychê)、知性(dianoia)、力(ischys)を指しています。これはヘブライ語の出エジプト記 6:5のテキストに基づいていますが、マルコによる福音書 12:30では知性(dianoia)が追加されています。これは、神を愛するには理性も必要であることを強調しています。

I. 「最も重要な戒め」:構造と視野

イエスが引用した神を愛せよという戒めは、決して新しいものではありませんでした。イエスが二つの異なるユダヤ教のテキストを組み合わせたことは、両方がすでにトーラーの中で存在していたことを示しています。しかし、イエスがそれらを一つの複合的な戒めとして統合し、「それらより優れた戒めはありません」と主張したことは、新しいことでした。

この戒めの構造は、キリスト教の人間の存在に対する視点を示しています。神との垂直な関係と、隣人との水平な関係は切り離せないものです。神を本当に愛するには、隣人を愛しなければなりません(ヨハネの第一の手紙 4:20)。同様に、隣人を本当に愛するには、その愛を神との関係に深める必要があります。キリスト教の愛は常に、神への上昇と隣人への下降というこの二重の動きを伴います。イエスの中で、それは一つに統合されています。

マルコによる福音書 12:30の四つの愛(心、魂、知性、力)は、ヘブライ語の出エジプト記 6:5のテキストの三つの側面(心、魂、力)の変形です。知性(dianoia)の追加は、神を愛するには理性も必要であることを強調しています。これは、fides quaerens intellectum(理解を求める信仰)という伝統的な神学の概念を反映しています。

書士は、その賢明な回答に感心し、イエスに「あなたは真の教師です」と付け加えました。イエスはその書士に、「あなたは遠くない、神の国に近づいている」と言いました。この近さは、愛という二重の戒めを通じて神の国に近づくことができるという視野の中で、マリアを見つけるマリア神学の背景となっています。

II. 「全心より」:マリアと分断されない愛

聖書における「心」(lev、ヘブライ語、kardia、ギリシャ語)は、人の中心、最も重要な部分、根本的な決定や感情の源を指します。神を「全心より愛せよ」とは、内面の分裂や保留なく、完全に、無条件に愛することを意味します。心に二つの領域があり、一つの部分を神から守るような、分裂した心ではありません。

マリアは、伝統的に「分断されない心」の象徴です。彼女が神に「はい」と答えたとき、それは部分的な、条件付きの献身ではありませんでした。彼女の「はい」は、全心からの、無条件の献身でした。彼女の心には、神のために保護されるべき部分はありませんでした。この無条件の愛は、彼女が受けた無原罪の御宿りによる直接的な結果でした。罪によって分裂された心を持つ人間とは対照的に、彼女は罪から解放され、神を愛するのに分断されない心を持っていました。

この神を愛せよという戒めのこの側面は、無原罪の御宿りの神学を照らし出しています。無原罪の御宿りにおけるマリアの完全な献身は、この全心からの愛を象徴しています。この完全な愛は、彼女の崇敬の表現であり、彼女の最も完璧な模範です。

無汚な心» それは、道徳的な純潔の象徴ではなく、分割や分散のない、神を「心から」愛する、究極の命令の実現です。無汚な心を見つめることは、人間の創造物の中でその命令が完全な形で実現されることを見つめることです。キリスト教の神秘主義は、ベルナール・ド・クラルヴァルからヨハネ・デ・ラ・クルスまで、純粋な愛を、瞑想的な生活の理想として探求しました。それは、返答を求めたり、恐れや報酬によって動機づけられたりしない、神をそのために愛するのではなく、愛そのものが創造された存在の基本的な構造であり、恵みである、という愛です。マリアは、この純粋な愛のモデルです。彼女は、何かを期待して神を愛したのではなく、愛は彼女の存在の基本的な構造であり、恵みでした。彼女の「フィアト」には、補償の条件はありませんでした。

III. 「近づくこと、自分自身のように近づくこと」: マリアと隣人への愛

第二の命令、「あなたは隣人を自分のように愛せよ」(レビ記 19:18)は、マリアの生活が福音書によって具体的に示されているように、マリアによって実現されています。訪問(ルカ 1:39-56)は、その直接的な行為です。マリアは、イザベルの妊娠の知らせを受け取ると、すぐに彼女のところに駆けつけました。カナの婚宴(ヨハネ 2:1-11)では、マリアは他人の必要に先んじて注意を払っています。十字架上の出来事(ヨハネ 19:25-27)では、彼女の息子への愛は、愛する弟子への愛と融合しています。マリアの「主を愛せよ」は、自然に「近づくこと、自分自身のように近づくこと」へと開かれています。マリアの愛には、グループや民族の制限はありません。彼女の霊的な母性(ヨハネ 19:26-27)は、普遍的です。彼女は、愛する弟子として、すべての時代の弟子を息子として受け入れます。このマリアの隣人への愛は、息子への愛に起因しています。彼女は、息子を「心から」愛したので、その愛はすべての「息子の」ものとなります。伝統的に、教会は、キリスト教生活と結びつけて、慈悲の行為を強調してきました。マリアは、その最も明快な模範の一人です。彼女は、イザベルの訪問(慈悲の足)、カナの客への仲介(慈悲の仲介)、十字架上のヨハネへの受け入れ(温かい心)など、慈悲の行為の模範となっています。マリアの隣人への愛は、抽象的なものではなく、具体的で、注意深く、個人的なものです。同じ命令が、マリアの人生の具体的なすべての行為の中で生きています。「主を愛せよ」は、隣人への愛と切り離せません。社会マリア学は、20世紀に発展した神学の分野であり、マリアへの献身と正義への取り組みを調和させることを目指しています。この学問は、二重の命令(十戒)をその根拠としています。ルカによる福音書1章52節に記される「力ある者を倒し、謙虚な者を高める」という母の賛美歌を称えることは、歴史の中で抑圧されている人々に共感し、彼らを支援することを意味します。**IV. 「王国に近づく」:マリアは王国の中心に」イエスが書士に「あなたは神の国に近づいていない」と言ったとき、それは二重の愛を通して神の国に近づくということです。この愛は、マリアが完全な形で体現したものであり、彼女は神と隣人への愛において最も完全な模範となっています。彼女の愛は、昇天によって確認された神国の完全な実現を表しています。「愛する神」という言葉は、マリアの完全な実現においてその究極の形を迎えます。彼女は「遠くない」のではなく、神国の中心にいます。伝統的な瞑想は、完全な愛を「神の国」と同一視し、この国はすでに信仰者の心の中に存在すると考えます。この観点から見ると、マリアは、神への愛と隣人への愛を独特に体現した人物として、歴史の中で最も神の国を体現した存在となります。聖心祭(6月の最終日)で祝われる聖心への献身と無汚なる心への崇敬は、この二重の命令の最も確かな基礎となっています。イエスとマリアの「心」は、神と隣人への愛を実践した、その完全な実現を表しています。普通時(アドベントまでの期間)は、二重の命令の礼拝の時です。この期間は、日常生活の中で信仰を実践し、神への愛を隣人への愛に変える時です。ナザレで30年間、暗闇の中で忠実に過ごしたマリアは、この「普通時」の教会にとって特別な指針となります。彼女は、日常のガリラヤ人の女性の生活の中で「全心、全魂、全思、全力」を愛した模範であり、特別な出来事に依存せず、日常の状況の中で愛を実践する模範です。神を「心、魂、知性、力をもって」愛し、自分のように隣人を愛したマリアは、イエスが「すべてのうちで最も偉大な」と宣言した二重の命令の最も完全な模範です。

参照

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