退けなかった:イザヤ書50章、フィリピの信徒への手紙2章、マタイによる福音書の受難(棕櫚の主日)
従順に死に至るまで、そして十字架による死に至るまで。
棕曜日と主の受難は、キリストの信仰の構造を形作るパラドックスを提示し、聖週の始まりを告げます。イエス・キリストは、六日後に犯罪者として十字架にかけられる前に、エルサレムにロバに乗って入城し、群衆から歓迎されました(マタイ21:1-11)。イザヤ書50:4-7は、主の奉仕者についての預言を提示し、鞭打たれ、侮辱されても、主が彼を助けることを知っていたため、屈することなく耐えました。フィリピ人への手紙2:6-11は、キリストの謙遜と服従の神秘を歌い、神と等しい存在であるにもかかわらず、人間の姿をとり、服従して十字架にかけられたことを伝えています。マタイによる福音書26:14-27:66は、受難の完全な物語を記し、ユダの裏切りから、ヨセフ・アリマタヤ人の墓への埋葬までを描いています。これらの三つの読書は、同じ物語の弧を描いています。それは、謙遜の下降が栄光の昇華への道であり、服従が栄光への道であることを示しています。
I. 第一読書:イザヤ書50:4-7主の奉仕者の第三の歌は、毎朝、神から弟子としての言語を与えられ、疲れた人々に支えとなる言葉を語る人物の対話を紹介しています。「主は私に耳を開いてくださり、私は屈しませんでした。私は退けませんでした」(イザヤ50:5)。奉仕者は、鞭打たれ、顔をひそめさせられながらも、屈することなく、顔を石のように硬くしました。「私は侮辱され、唾を吐きかけられましたが、神が私を助けてくださることを知っていたので、恐れませんでした」(50:6)。石のような顔とは、苦しみの苦しさに屈することなく、信頼によって硬くなった顔を意味します。奉仕者は、神が彼を支えてくださることを知っていたため、受難の限界まで耐えました。この堅固さは、続くマタイによる受難記で描かれるまでです。
II. 第二読書:フィリピ人への手紙2:6-11新約聖書の中でも最も濃密なテキストの一つであるフィリピ人への手紙のこの部分は、キリスト・イエスについての深い洞察を提供しています。イエス・キリストは「神性を持つ者として、神に等しい者として扱われることを考えず、かえって自分を空(くう)にし、人間の形をとり、人間のように見えました」(2:7)。この自発的な空(くう)化、つまりケノシス(空になること)は、神性から人間性への移行であり、選択された道でした。イエス・キリストは、最も低い位置、つまり十字架にかけられるという刑罰に直面しました。しかし、この最下点から、栄光への上昇が始まります。「神は彼をとり上げ、高い所にあげ、名においてすべての名を上回る名を与えられた」(2:9)。「すべての膝は主を崇め、すべての舌は、イエス・キリストは主であることを告白し、父なる神への栄光を」(2:10-11)称えるでしょう。
III.情熱: マタイによる福音 26章14-27章66節
マタイによる福音の情熱の物語は、人間であるメシヤが、奉仕し、命を多くの人々の救いのために捧げるという中心的なテーマを描いています。ユダは祭司長たちに近づき、銀貨30枚でイエスを裏切る取引をします。最後の晩餐において、イエスは聖体礼儀を創設し、裏切りを予告します。ゲツセマネの園では、イエスが3回にわたって次のように祈ります。「父よ、もし可能ならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志に従います」(マタイ26:39)。弟子たちは眠りに落ちます。イエスが逮捕されます。ペトロは3回否定します。イエスは一審でユダヤ人の評議会に、次にピラトの裁判にかけられます。ピラトはイエスかバツラエスのどちらを釈放するか、群衆に尋ねます。群衆はバツラエスの釈放を求めます。ピラトは手を洗い、「私はこの義人たちの血について無罪です」(27:24)と宣言します。イエスには鞭打たれ、棘の冠をかぶせられ、ゴルゴダの丘に連れて行かれ、十字架にかけられます。十字架上で、3時間暗闇が地上の国を覆います。イエスが叫びます。「神よ、神よ、なぜ私を捨てられたのですか?」(27:46、詩篇22:2)。そして、イエスは息を引き取ります。聖殿の幕が真ん中で裂け、大地が揺れ、岩が割れました。百長は兵士たちに、「この人は真の神の子でした」(27:54)と言いました。イエスの体は、アリマタヤのヨセフの新しい墓に埋葬されました。マリアと「スタバト・マテール」
シメオンは神殿でマリアに、「あなたの心は剣に刺されるでしょう」(ルカ2:35)と告げます。情熱は、この予言の成就です。マタイはイエスが十字架の下にいないことを記述していません(ヨハネによる記述にその場面があります、ヨハネ19:25-27)。しかし、マタイは、遠くから見守っていた女性たち、マリア・マグダラとヤコブとヨセフの母親を含む(マタイ27:56)ことを記しています。伝統によれば、マリアはイエスが受けた苦しみを独特の方法で共有しました。それは、距離ではなく、内面的な存在の形です。イザヤ書50章は、顔に侮辱を受け入れ、屈辱に耐える僕について語ります。マリアも同様に、顔を隠さず、弟子たちが逃げた中、最後まで見守りました。フィリピ人への手紙2章は、キリストが自己を空にされたことを述べています。マリアもまた、情熱において、33年間の期待や理解が全て失われた中で、自己を空にされました。マリアの十字架の下での存在は、子であるキリストの空の成し遂げられた母としての参加です。聖週は、枝を振り、ホサナで始まるもので、静かな聖土曜日で終わります。墓の石が転がり、マリアはまだ人間の目には理解できない内なる神秘を、その中から見守っています。マリア学修士課程
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